「主の奉献」

 

 

  都の聖母1 

  

  

  

  

  

  

   

   

   

   

   

 

 

お話:ランディー神父

 

Presentation in the temple LK. 2:: 22-35

(ルカによる福音書 2章 22-35節)  

 

どこの国でも、子どもが生まれると、必ず神さまに捧げられます。

それは、神の祝福を受けるため ということもありますが、

それだけではなくて 神への 感謝の印(しるし)でもあるのです。

なぜなら、すべての子どもは、神からの贈物だからです。

 

マリアさまも ヨセフさまも 同じように 神殿でイエスを捧げられました。

今日の福音では、シメオンの証言を通して、

幼子イエスの運命が 告げられています。

 

シメオンによれば、この子は イスラエルの興亡の印と定められています。

また、マリアさまにとって この子は 喜びであると同時に 苦しみともなると

言うのです。ここにある種のパラドックスがあります。

 

主に祝福された人々は、一見、その祝福とは裏腹なことを経験します。

マリアさまは 神の御子の母となるという祝福を受けましたが、

その祝福は マリアさまにとっては、自分の息子が十字架上で亡くなるのを

見ることにつながり、その心を貫く剣(つるぎ)ともなったのです。

マリアさまは 喜びの冠と悲しみの十字架の 両方を受けられたことになります。

 

しかし、マリアさまには 信仰と希望、そして、

さまが約束してくださったことについての 信頼がありますから、

悲しみのために その喜びが小さくなることは ありませんでした。

 

 

シメオンも マリアさまと同じ信仰をもって 生きていました。

シメオンは、イスラエルの救いがくる印を見ることを 待ち望んでいたのです。

彼はメシアが来られるという希望によって 

すべての苦しみを耐え忍ぶことができたのです。

 

多くの殉教者たちが 死にいたるまで 

苦痛や拷問に耐えることができたのは、

すべて この大きな希望のためであると思います。

 

生も死も 取り去ることのできない、

この真(まこと)の喜び、悲しみや苦痛を耐える力となる 

喜びを与えていただけるように、祈りましょう。

 

 

 

写真: 上・ 「都の聖母」(カトリック伏見教会 聖堂にて)

 

 

                                   カトリック伏見教会