「主の洗礼」

ゆりの花

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
  
 
 
   
お話: ランディー神父

 

MT 3 13-17
 
(マタイによる福音書 3章 13ー17節)
 
 
 
ヨハネによる洗礼は 罪びとへの呼びかけであり、罪を悔い改め、

生活を一新する印(しるし)として 勧められたものでした。

 
それでは、イエス自身が それらの罪びとたちに混じって、

ヨハネから洗礼を受けられた意味は、どこにあるのでしょうか? 

 
私たちは、そのような疑問を いだくかもしれません。


これは、ご自身と罪びととの 連帯をはかろうとされる 

イエス流のやり方だったのです。

その意味は、イエスは 罪びとを とがめられない ということです。

 

イエスは、後からされた説教でも、

「私が来たのは罪びとのためである。

罪びとがいやされ、罪から清められるためである」と 言っておられます。


そのとき、イエスは すべての人を神のもとに 一つの家族として集めて、

その人々をご自身で 御父のところへ 導いて行くという

ご自身の使命を しっかりと意識されていたのです。

 

公生活において イエスは、あちらこちらへと 出向き、

多くの善行をされたのでした。


人々の生活に触れ、人々を癒し、

人々を罪の闇から救いだし、

彼らがそれぞれの召命にふさわしい生き方ができるように

援助されたのでした。

 

私たちの思いの中に、イエスは どの程度 深く浸透しておられるでしょうか?

また、私たちの行動は、どの程度 イエスの影響を 受けているでしょうか?

反省しなければなりません。

私たちは行いによって、自分がどのような人間であるかを示します。


洗礼は大きな恵みです。

でも、その時に頂いた恵みにふさわしい生活をしている と答えられる人は

どれだけいるでしょう?



神の力は 私たちが 最も予期していないときに 輝き出ます。

私たちが、生活難や、その他の苦しみのために 落ちこぼれている人に、

心を開くときに、神の霊が 私たちに働かれます。




私たちは 言葉によって 説教するだけではありません。

その 生き方によって、すなわち、この世界を より良い場所にかえる

私たちの努力によって 説教するのです。


日々の活動において 私たちがすることを通して 

イエスは 人々の中へ 入って行かれるのです。

 

今日は キリストの宣教において 私たちの果たすべき役割が 

より鮮明に わかるように 祈りましょう。



神は私たちを通して働かれるのです。 

私たちが 神への信仰と 希望と 愛、

そして人々への愛をあらわすことを念頭において、

教会の様々な行事の計画なども、立案したいものだと思います。

 

写真: ゆりの花 カトリック伏見教会にて

 
 
                              カトリック伏見教会