パウロ 大塚喜直 京都司教の最近のブログ記事

   <献堂60周年記念 感謝のミサ>より

 

     お話:パウロ大塚喜直 司教

 

    第1朗読: イザヤの預言(56章:1節・6-7節)「異邦人の救い」

    第二朗読 聖パウロのコリントの教会への手紙一(3節9-11章・

                16-17章)「神にために力を合わせて働く」

    福音朗読:ヨハネのよる福音 2章13節~22節

                                        「神殿から商人を追い出す」

 

聖堂内1 

   

  

  

  

  

  

  

  

 

 

 

 

 

カトリック伏見教会 献堂60周年記念 感謝ミサ 説教

+パウロ大塚喜直

 

献堂60周年を迎えられた伏見教会の皆さん、誠におめでとうございます。

この地に教会をお望みになった父である神様に、

京都司教として皆様と共に感謝と賛美をお捧げしたいと思います。

 

今日の福音は、イエスによって救いの完成が始まる新しい時代の到来を

予告する意味があります。

イエスは、過越祭が近づいた神殿で、羊や牛をすべて境内から追い出し、

両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに

「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を

商売の家としてはならない。」と言われました。

  

「商売の家にしてはならない」とは、

これからはもう、神殿で犠牲を捧げる必要はなくなる。

イエスが十字架で捧げる犠牲が永遠の奉献となるという意味です。

 

イエスは「三日で建て直してみせる。」といって、

神殿が御自分の体のことであり、十字架でなくなり、

3日目に復活することを予告されます。

 

弟子たちは、

「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」

と書いてあるのを思い出します。

弟子たちは、

「神の家を思う熱意、実は、神の思いでなく、

自分の思いを通すための、誤った熱意だ」

と気づいたのです。

聖堂2 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

私たちの教会は、このキリストによる新しい奉献によってできた神殿、

つまり、キリストによって集められた共同体です。

 

この交わりの中にキリストご自身がおられるのです。

このことは、今日の記念を祝う時、決して忘れてはならないことです。
 

キリストの兄弟姉妹として、キリストと共に集う私たちは、

自分の思いではなく、キリストの思いを実行する共同体に属しているのです。

 

そして、特に小教区としての教会とは何であるかを反省するために、

重要なポイントとして、教会が「宣教の拠点」であるということを

大切にしたいと思います。
 

共同宣教司牧によって、私たちは教会のこの「宣教の拠点」と言う側面を

以前にもまして強調し意識しています。

  

教会をギリシャ語で、「エクレジア」といいます。

呼び集められたという言葉からきます。

呼ばれたのは、そこに場所に留まるためにではなく、派遣されるためです。

  

教会に来た時だけ信者で、一歩教会の外に出て生活する時は、

心に信仰を秘めて生きる『隠れキリシタン』ではいけないのです。

   

そもそも、キリストの愛によって信徒が交わることは、

教会の中での内輪の平和のためではありません。

  

教会の外で、信徒が一致して信仰の証をするためです。

 

一昔前まで、教会のなかで共同体ということばさえ使われなかったのは、

教会がお寺のように祈る場所と言うイメージが強く、

そこでは個人個人の信仰を守ることが大切されていました。

信徒同士のつながりも、いわば内輪の交流の為に必要なものを思いがちでした。

     

しかし、信徒として、社会に派遣されるという信徒としての最大の務めを

今、第一にして共同宣教司牧を推進しているのです。

   

宣教とは、教会に人を呼んでくることではなく、人々に神の愛を伝えることです。

   
キリスト者は、神の愛に最も飢え、最も気づいてほしい人々に向かって、

言い換えれば、最も救いを必要としている人々のところ遣わされているのです。

私たちは、神の愛の宣教者として周囲の人々に近づき、

神の愛を具体的に表す使命があるのです。信仰がそうさせるのです。

また、そのための信仰なのです。

 

1951小

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

今年の京都教区のテーマは「召命」に続いて「信仰」です。

私たちは「本物の信仰」でもって、「本物の信者」にならければなりません。

自分は一体どんな信仰をもっているのか、

私たちの回心と信仰の成熟を目指すこの一年です。

 

イエスは、

「二人、また三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」

と言われます。

キリスト者の二,三人とは、神の愛に飢えていることに気付く仲間であり、

世間で疎まれる人、小さな人々を最優先に、心を尽くし、

自分と同じように愛することを決意する仲間です。

だから、祈るのです。祈らざるを得ないのです。 

 

今日は、献堂60周年記念として、新しい聖櫃の台が奉納されます。

ご存知のように、教会は、主キリストからゆだねられた

神秘であるご聖体を分配する務めにおいて、

まず病者と臨終の人のために聖体を保存するために、

聖堂に聖櫃を置いて、聖体を安置してきました。

 

そして、安置されたこの天からの糧に対して、私たちは聖体礼拝を行ないます。

ご聖櫃は、わたしたちに、ご聖体の形での主の現存を思い起こさせますが、

それだけでなく、キリストの愛をもって

受け入れなければならない「兄弟姉妹」を思い起こさせるものです。

つまり、聖櫃は、キリストを囲む私たちのシンボルなのです。

    

したがって、今日献堂記念を祝う私たちが、共同体として、

お互いに兄弟姉妹として、キリストの愛をもって受け入れることを

新たに約束したいと思います。

このミサで、60年の伏見教会の歩みを見守り、

導いてくださった御父に感謝を捧げながら、

その御父が今も私たちに望んでおられる宣教を行うために

ふさわしい教会共同体に成長していけますように、神の恵みを祈りましょう。

 

 

写真 記事 上:  カトリック伏見教会 聖堂 内部

        中:  カトリック伏見教会 聖堂

         下:  カトリック伏見教会 聖堂 正面入り口にて(1951年献堂)

        (2011年撮影)

                                     カトリック伏見教会

 

 

 

    2011年度洛東ブロック司教訪問 ミサ より>

      お話: パウロ 大塚喜直 京都司教

 

   第1朗読:列王記上 3・5章、7~12節

   第2朗読:ローマの信徒への手紙 8章28~30節

   福音朗読:マタイによる福音書 13章44~52

     (「『天の国』のたとえ」「天の国のことを学んだ学者」)

 

白ゆり  

   

   

   

   

   

   

   

   

   

 

 

 

 

今年のテーマは「召命」に続いて「信仰」です。

私たちは「本物の信仰」でもって、「本物の信者」にならなければなりません。

自分は一体どんな信仰をもっているのかを考え、

私たちの回心と信仰の成熟を目指すこの一年です。

 

今日の「神の国のたとえ」の福音も信仰をテーマに黙想したいと思います。

 

まずその前に、イエスのたとえを聴くときの大切なことをお話します。

 

それは、イエスの喩えはその意味を知ることにあるのではなく、

聴く人の心構えにあるということです。

 

普通、喩えとは、難しい事柄を、たとえを使って、

易しく説明するために用いるものです。

 

しかし、イエスの喩えは、難しい事柄を説明するというよりも、

それを聞いた人が何を考えるか、そしてその結果、

新たな行動を起こすかどうかということが、期待されることなのです。

 

イエスは、人が神と出会い、新しい生き方を始める時に、

どのような心構えが必要か、今日の「畑に隠してある宝」と

「高価な真珠」のたとえで教えられます。

 

「畑に隠してある宝」と「高価な真珠」のたとえは、

神と出会った喜びとその体験がいかに尊いものであるかを、

それを見つけた人の取る異常なまでも行動で印象つけようとします。

 

宝とは、非常に大切なもので、見つけたら手放せないものです。

この宝とは、人が神との交わりにおいて生きる喜びです。

人は、これを「予期しないで」見出すこともあれば、

「長い追求のあとに」見出すこともあるでしょう。

 

人が人生でキリストに出会う道は様々です。

しかし、一旦神と出会った人はその神からいただく喜びを

絶対に手に入れたいと思います。


 

みこころのイエス像・横顔  

 

  

  

   

   

   

   

   

   

 

 

 

 

 

 

  

 

 

「畑に隠してある宝」の農夫の態度には、

どのような犠牲を払ってまでも手に入れる、

人間の熱意、努力、覚悟といったものを感じさせます。

 

「高価な真珠」の喩えは、真珠商人らしい話です。

最高の真珠を手に入れたなら、商人そのあと

どんな種類の真珠も正しくその値打ちが判断できるのです。

 

神の国の秘義をつかんだ人は、最も価値のあるものを見出したので、

この世のあらゆる物がそれぞれに持っている価値を計る「物差し」を

身につけたことになる。

(昔、両替商の子どもに、本当の金の小判を持たせて遊ばせたそうです。

偽ものを持ったときに、それが解るように)。

 

私は今年の年頭書簡の中でいろいろ質問しましたが、

これらはそれぞれ「信仰のセンス」というものを問うものです。

 

その中から今日の福音は、

「2.あなたはいつも神からの招きを感じていますか?」と、

「3.あなたは見えない神に近づいていますか? 」が関係しています。

 

私たちは、自分が神に出会っているのに、

その体験をどこかあとでも手に入るようなものとして、

後回しにしているような態度ではないでしょうか。

 

畑をすぐに買う人や最高の真珠を見て手に入れる真珠商人のように、

いつも神の愛を選び取る機会を逃したりしてはいないでしょうか。

 

信仰は、私の内に働く「霊的な感覚」という信仰のセンスによって発見されます。

神は、人間に、聖霊から来る信仰を感じる能力を与えています。

私たちは、それにもっと注意して、それを使わなければなりません。

 

神は、私のこころにいつも聞こえる声で働きかけおられます。

したがって、神の招きをいつも注意深く、真剣に受け止める必要があります。

 

また、神の愛とあわれみを信じ、言葉やしるしを手がかりにして、

現実の中で目に見えるしるし(象徴)を通して、

目に見えない神に近づいていくことが求められます。

 

信仰者が頼りにするのは、自分の知恵、力、富などのようなものではなく、

永遠の神です。その保証は、神の誠実さです。

 

だから、私たちは見えない神の働きを信仰において

「心の目」で「見る」努力をしなければなりません。 
 

 

  聖堂1 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


イエスに従うように選ばれ、この呼びかけに答える道を選んでいるのに、

一向に中途半端な態度から抜け出せません。

 

私たちは、いつも完全ではありません。

日常の具体的な、かつ小さな選択や行動が、

自分が根本的に選んでいる生き方に反していること、

あるいは矛盾していることがあり得ます。

 

しかし、信仰のセンスを使って、この矛盾した行動を取る自分を

常に刷新して行こうとする意欲、つまり、悔い改め、回心の態度を

取りもどしたいと思います。
 

聖堂外面上部十字架 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

今、東日本大震災に対して私たちもできることがあります。

カトリック教会としても、これからの長い復興の道のりを、

ともに歩み、支援を続けます。

 

今、困難な状態に置かれているすべての被災者の方々に

ずっと寄り添うことを約束しましょう。

 

そして、亡くなった方々のために祈り、悲しみのうちにある被災者に、

神が力と慰めを与えてくださいますように祈り、支援を続けましょう。

 

    

教会の花セージ 

  

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真 記事 上:伏見教会の庭の花(白百合とブッドレア)

       中上: カトリック伏見教会 みこころのキリスト像

        中: カトリック伏見教会 聖堂

       中下:カトリック伏見教会 聖堂

        下: カトリック伏見教会の庭の花(ブッドレア)

                        (2011年7月撮影)

 

                                          カトリック伏見教会